チャック
「あ、みや」
たくん、と続けようとした言葉は、喉につかえて腹へ引っ込んだ。
黄昏時の商店街。幕之内一歩は、両手に商店のビニール買物袋をぶら下げて、カクカクと挙動不審に歩みを止める。
買物袋の中身は大根に牛蒡、蒟蒻、里芋等々、いかにも煮っ転がすのに適していそうな純和風食材の数々。一歩は夕飯の買物の最中なのだった。
呼びかける声を止めたのは、ボクサーらしからぬ、かなり後ろ向きな心理的理由によってである。
仲良いワケじゃないって釘刺されてるもんなあ、と一歩は「やあ」の形に上げかけた右手を、やはりカクカクとぎこちない仕草で下ろしながら考えた。
一歩は宮田が好きである。
だってかっこいいんだもん。
そう言うにつけ匂わすにつけ、周囲の悪意ある先輩らからホモホモ囃し立てられて一歩は憤慨するのだが、その先輩らから言わせれば、しょうがねえだろあいつ明らかにおかしいだろ。
確かに宮田を前にした一歩はおかしい。
一言で言うと乙女である。
普段から、膝を揃えて椅子に座ったりTVを見るのに正座したり男ばかりのシャワー室で股間を隠して歩いたり、後輩のシャツのボタンが取れたのを手持ちの裁縫道具で付けてやったり先輩の汚い部屋を頼まれてもいないのに掃除してあまつさえ飯まで炊いたり靴を揃えたり、
「わ、女の子みたい!」
とその場を目にした人間が素で思うほど行動がお嬢さんくさい一歩だが、宮田を前にするとそのお嬢さんくささがより顕著に現れる。
たとえば視線が合ったとすると、一歩の頬は赤くなる。
目は輝くわ呂律は怪しくなるわとにかく笑顔は全開だわ、諸々の外部証拠から察するにそれは愛だねと言われたら、完全否定はちょっと難しい。
しかし事実、一歩の宮田に対する感情に、今のところ下心は存在しない。
あくまでも純粋の粋を極めたその宮田への一歩の好意は、ただ、もはや崇拝に近かった。
鷹村さんたちにホモホモ言われてから、宮田くん妙に避けるもんな。
あんな趣味悪い冗談真にうけられたら困っちゃうなあ、声かけたらイヤがられるよねえ。
しかし憧れの宮田と偶然、まったく予想だにしなかった場所で会えたのだ。
稀有なタイミングである。
話しかけたい。
何してるの買物?夕飯?とか聞きたい。
絶対睨まれて冷たくされてすぐ帰られちゃうだろうけど無理だろうけど、も少し仲良くなりたいよお。
葛藤に、一歩のこめかみを汗が一筋伝う。
思いが通じたのか気配を悟られたのか。
一歩の傍らを通り過ぎようとしていた宮田と、目が合った。
なんでおまえがここに居る。
非難の色をした言葉が喉まで出掛かった。
気を使う必要など全く無い、むしろ無下に扱ってよしと自分で決めている相手ではあるが、さすがに偶然の出逢いにまで難癖をつけるのは横柄が過ぎる。
どこにいようとお前の勝手だ。
勝手だけど。
なんで会うかな。
斜め前方で自分と目を合わせたまま、興奮気味に丸い目を更に丸くし、ついでにその縁に涙までにじませて、肩を竦めている一歩が宮田は苦手だった。とても苦手だった。思いつく限り今のところ、もしかしたら日本一。
幕之内、その態度どうにかならねえか。
いつもいつもリングの外で対峙する度思うのだが、一歩の宮田に対する反応はどうにも過剰におかしい。
二人を見る第三者が抱くのと同じ感想を、宮田もまた一歩へ持っていた。
女の子かよ乙女かよ。ていうかもう姫クラス。
宮田を宮田と認めた途端、ぱあっと顔を染めて目を伏せ、もじもじと両手を腹の前でこね始めた一歩を、宮田はげんなりした視線で見る。
「み、みやたくん・・・・・・・・・
・・・・・・・・・お久しぶりです」
やめろって。
宮田は頭を抱えたい衝動に駆られる。
こいつが。
こいつがこいつが。
認めて追って追いつきたくて追い抜けなくて、合い見まえるのを切望し続けてどこまでもその影を見て、東洋より世界よりベルトなんか関係なく、きっと生涯ただ一人の。
そうゆう最大の好敵手と思いつめる相手にこうもあからさまに慕われるのは、ちょっと嬉しくないし何やら空しい。
頼むシャンとしてくれ。
宮田の複雑な心境を知る由もなく、一歩は
「宮田くんは、今日は買物?」
と堪え切れない笑顔で顔を上げかけ、
静止した。
馬鹿な。
じわりとこめかみに汗が冷たく滲んだ。
一歩は硬直が解けぬまま、がちがちと堅い動作で一足分後ろへ下がる。
そんな馬鹿な、宮田くんが。
一歩の常ならぬ、もとい常を上回る挙動不審な様子に、宮田は眉間へ皺を寄せた。
宮田は自分に無いものをたくさん持っていると一歩は思う。
涼やかな容姿も洗練された立ち居振る舞いも、何もかもに華があるように見えて、植物に例えれば間違いなくイネ科となろう一歩はそんな宮田がまぶしくて、羨ましくて憧れてやまない。
その宮田が。
・・・・・・前、開いてる。
乙女が見たならばキャアと恥らいつつ目を逸らしたであろうが、そこは流石に体育会系。この一線では一歩も男であった。
「み、宮田くん」
前、前。ズボン。チャック。
うわー言えないよおー誰か嘘だって言ってよおおお
「何だよ」
でもでもこのまま知らん振りして、宮田くんに恥をかかせちゃいけないよ!
「あの、あのう」
「だから何だ」
あからさまに苛立っている宮田の声が怖く、その股間を蒼褪める気持ちで見つつ逸らしつ、顔を上げられずに一歩は、しかし心を決めた。
「あのね宮田くん」
声が若干裏返っている。
「早く言えよ」
舌打ちしそうな声音で宮田が言う。
「ボクね、おちんちんがすごく大きくて」
「待て」
一歩はびくんと肩を強張らせて黙った。
宮田も待てと言いはしたものの黙った。
一歩の中には葛藤と、ただ宮田に恥をははすまいという一途な決意がある。
宮田の中には底なしの混乱が広がりつつある。
一歩は再び口を開いた。
「それで鷹村さんたちに、よくからかわれちゃってイヤでね」
宮田は状況を整理しようと試みた。
幕之内のアレはでかいらしい。
それでからかわれるのがイヤらしい。
どうしろと。
一歩はどうにも無理のある、明るく作った笑顔で顔を上げた。
眉間のこわばりと浮かぶ汗さえ無視すれば、ひまわりを思わせるようないい表情で、
「宮田くんのは普通だよね!?」
ケンカ売ってんのか
てめえ何がどんだけ凄いか知らねえが俺だって・・・どうだかわかんねえけどよ関係ねえだろボクシングにはそもそも大きさじゃねえようるせえよ俺はよ
突っ込みたいところとは違う方向へ思考が操作されて行ってしまうのは、哀しい男の性なのか何なのか。
宮田はほとんど無意識に、わずかに、一瞬のつもりで、自分の股間へ視線を落とした。
その目が見開かれる。
宮田は無言で後ろを向いた。
ごそごそと僅かに背を屈め、作業しているその後姿に、一歩は心の底から安堵した。
宮田の動きが、やがておもむろに止まる。
あ、終わった?
一歩はほっとして笑った。
「幕之内」
落ち着いた声だった。
「・・・・・・・・・ストレートにな。言ってくれていいから」
そうして振り向く事のないまま、憧れの背中は去って行った。
一歩はかける言葉が見つからず、夕焼けの商店街に佇み続けた。
一歩にだけ見える宮田の背中にしょわれた華は、心なしか萎れかけているような風情であった。
しばらく宮田は鴨川ジムへは姿を見せず、数日間ほど一歩は酷く落ち込み続け、ゴシップ好きの先輩らにアレコレ裏を探られたという。
あとがき
宮田君が前閉め忘れる事なんて起こり得ませんが
ふと思いついたら楽しくて仕方なくなり、か、書いてしまいました!
一歩は、実際にはちんことかそういうの、彼なら、
はずかしくて言えないと、思います。
(2005)
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