携帯から着信を告げる曲が流れた。
「あれ、珍しい」
サブのディスプレイに点滅する名前を見、板垣は軽く目を瞠る。
左手で携帯のフラップを開きながら右手で卓袱台上のリモコンを取り上げ、板垣はテレビの音量を下げた。ホームバラエティなにぎやかしい笑い声が遠ざかり、代わりに携帯から地を這うような死神の声が聞こえてくる。
『明日、暇か』
名乗りも無ければ前置きも無い。
「珍しいですねー、間柴さんが電話くれるなんて」
『・・・・・・』
「明日はですね、ちょっと朝の仕事があるんでー」
『昼からだ』
異様な威圧感と緊張感を漂わせる低鋭い声に、しかしいささかも怯むことなく、
「あ、じゃあオッケですよ、お供しましょか。何、どっか行くんです?」
実に板垣の調子は軽かった。
『・・・1時半に駅前だ』
「ラジャでっす。あ、間柴さん今テレビ見てます?駅弁2千円てありえなくないですか」
『見てねえ。食わねえ』
「そういや明日昼どうします?どっかで」
駅前と言えばはびこるフランチャイズ定食店舗。財布の中にもっさり溜まったクーポンの切り抜きを思い出しつつ、板垣がそう切り出したところで、台所からがちゃんごとんきいやあと、破壊音に告ぐ悲鳴がした。
『何だ、どうした』
電話向こうの相手に聞き咎められ、板垣は肩を竦める。
「ちょっと妹が、励んでまして」
『瓦でも割ってんのか』
「そうそう最近極真入門しちゃって、正拳えいやーって違うでしょ!そんな訳ないでしょ!これがノリツッコミですよ覚えといて下さいね。ははは面白いですね間柴さん。いや、なんか料理してるみたいです。うちの普段全然しないんで」
『ふうん』
間柴の口調は何やら感慨深げであった。呆れているようでもあった。
『お前は本当によく喋るな』
「あはは」
そこで電話は唐突に切れた。
誤操作によってでなく、向こうの会話終了の意思によってである。ここしばらく間柴となぜか、親しくつるんでいる板垣には良く良く察せられた。
「明日って、わかってんのかなあの人・・・・・・」
板垣はちょっと遠い目で空を見る。
おにーちゃーんっ、と、台所から妹が自分を呼ぶ声がした。
「雑巾、雑巾どこだっけー!?」
「洗面所だろー。今度は何をひっくり返したんだ?」
「ひ、秘密だもん」
「あんまし無理するなよー」
「するもん、ばりばり本命なんだから」
うーん我が妹ながら心意気だけは可愛らしい。
しかし残念だな妹よ、明日の君の本命は、おそらくここのところの挙動不審から見て、当日売約済みなのだ。
と、ふと板垣は首を傾げる。
先ほどの電話の件について。
自分の尊敬する先輩であり、妹の本命であろうところの人物・幕之内一歩の挙動は、確かにここのところやや不審であった。不審というか、自室の隅に正座して「バレンタイン特集・デートスポット20選」の謳い文句も華々しい10代向け雑誌を熟読している姿にはなんだか涙すら誘われた。
「うーん、まさかなー」
でも間違いなさそうかもなー。
ははは、と今度は乾いた笑いが洩れる。
台所からは、甘く焦げ臭い香りが漂い始めていた。
雑踏の中を手を振りつつ駆け寄ると、間柴はすぐに板垣に気が付いた。自分と同じで視力も勘もいいのだろう。間柴はあまり喋らない上に感情表現も殆どしないが、不思議と板垣はこの男との意思疎通に困った事は無かった。
「お待たせしましたあ」
「おう」
と頷き、首を巡らせてどうやら改札前に掲げられた電光の時刻表を確認しているらしい間柴の姿に、板垣はしみじみと思う。この人スタイルいいのに姿勢悪いから損してるよなあ。自分と彼の腰位置を見比べ、ほんとアメンボみてえだよと嘆息しかけたところでハタと気が付いた。
「そうだ間柴さん、え、電車乗るんですか?」
「ああ」
間柴は時刻表から目を離さぬまま、頷きもせずに肯定する。
「どこ行くつもりなんです、そもそも」
「浦安だ」
「うらや・・・」
板垣の脳裏に閃くものがあった。
先輩が畳に正座して、やたら姿勢良く見入っていたアレ。
あの雑誌、あのテンションの高いラメ装丁、ポップティーンな踊り文字。
「まさか、あのー」
ええボクも自分の身に覚えがあります。板垣は己が学生時代の思い出を反芻しつつ間柴へ語りかける。
そう今日といえばアレですよねバレンタイン。
バレンタインといえばカップルで、カップルといえば御定まりのデートスポット、それが浦安と来た日にゃあ
「ネズミの国ですか」
「それも海だとよ、くそったれが」
忌々しげに吐き捨てる間柴。つり上がった口端から犬歯が覗いて、あたかも悪鬼の如き形相になる。
「ましばさああーん」
へなへなとした動作で顔を覆い、天を仰ぎ、そして間柴の背中へ腕を回す板垣。
「ちょっとちょっと、やめときましょうよー、そっとしといてあげて下さいよ」
ぺしぺしと背中を叩かれながら、しかし間柴の悪鬼面は変わらない。改札へ向かう人の波が、モーゼに分かたれたが如く左右へ割れてゆく。
「くくく、てめえの兄貴分いい度胸してやがるじゃねえかああ?まぁ安心しろ見守るだけだ、手ぁ出さねえ」
もっとも向こうが別の手出しくさった日にゃあ、見るのは血だけじゃ収まらねえがな。そう間柴の喉奥から怪笑と共に洩れた言葉に、板垣は血に染まった海の楽園を見た気がした。
「間柴さん、いいですか冷静に考えて下さいよ。それは尾行ってんですよ?いい歳こいた兄貴がいつまでもですね」
「うるせえ、てめえは黙って案内しろよ」
「案内・・・・・・」
説教をぶったぎられ、憮然とした板垣はしかし、案内と言われてまた脱力した。
「間柴さん」
「んだよ」
「場所とかわかんないんですね?」
「知るわけねえだろ。舞浜ってどこだよ」
「時刻表とか見ましょうよ」
間柴はちょっと黙った。そして視線を下へ落とした。自分の靴先を見ているらしかった。思わず板垣も一緒に眺めた。光沢の無い黒レザーの、その先端はちょい尖りめなデザインで、足首下のサイドにはブランドタグの入ったメタルプレートがパンチングされている。
それは板垣が選んだものだった。似合う似合うと無責任に勧めてみたら、いつのまにか無言で購入していたのだが、どうやら気に入っているらしく、使い込まれているのがレザーの擦れで見てとれた。
間柴は俯いたまま、ぼそりと口を尖らせた。
「だって」
「・・・・・・だってじゃないでしょうよ」
板垣はなんとなくだが勘付いていた。おそらく間柴は時刻表が苦手だ。
この男は普段からレストランのメニューも見ないし店の名前も覚えない。「いつものところ」で「いつもの」注文。ソレで済ましたがる人間は往々にして、テリトリー外の調査にとても弱い。
板垣は聞こえよがしに溜息をついた。
「ボクだって暇じゃないんですけど」
「・・・昼からなら暇だって言ったじゃねえか」
「そりゃ間柴さんと、このへんウロついて話して飯食ってってなら、お楽しみってコトで全然構いませんけど。貴重なオフ潰して先輩の尾行なんて・・・」
さてここからの駆け引きが肝心だと、心中板垣は拳を握る。
「・・・・・・気ィ進みませんよ・・・・・・」
話の持って行き方次第で、貸しの重みは二倍増三倍増。ジュニアライト級王者である死神への貸しはとても貴重だ。それに間柴さんは苛めると可愛い。
「・・・・・・保護監督だ」
「だからそれが間違ってるってんですよ、久美さん未青年じゃないんだから」
「嫁に出すまでは一緒だ」
「そんな事言って干渉し過ぎたら自由もプライベートもないじゃないですか」
「幕之内さえ関わってなきゃ俺だってここまでしねえよ」
「ボクも幕之内側の人間なんですが」
「・・・・・・」
間柴はまた黙った。念のため板垣は付け加えておく。
「いや、もちろん間柴さんの味方でもありますが。でもこの件に関しちゃ先輩を応援」
「てめえにしか」
間柴の声は、たいへん暗い。
「頼めねえ」
ま、ましばさーん。
板垣は思わずときめいた。
あなた何言ってるかわかってますかー。
あなた今、バレンタインデー当日に、ボクに、あのネズミの国に、一緒に行ってくれってお願いしてるんですよー。そこんとこわかってますかー。
「わかってんだよ」
絞るようにして吐き出される声は苦味も帯びて、間柴の表情は強張り始めているようだ。
「あいつん事一番泣かしてるのは、俺だ」
「は」
板垣は虚を衝かれた。
「泣かしてばっかりだ。優しくもできねえしボクシングもやめらんねえ」
ち、と舌打ちをする。優しくない、ボクシングはやめられない、半日でも付き合えば解る間柴の性格における最低2項目だ。
「だから、それ以外じゃ、一滴も泣かせられねえんだ俺は、これ以上は泣かせねえ。・・・・・・わかんねえだろ、幕之内だって、一応アレでも男じゃねえか」
「ひ・・・酷いなあ」
先輩を侮辱された板垣は、困った表情で頭を掻いた。困っていた。
手を下ろす。所在ない。ええい、腹を括る。
「間柴さん」
「ん」
「いいでしょう」
「あん?」
いつにもまして無表情、口調まで無愛想に凍らせた間柴の肩を、板垣は勢い良くがっしりと片手で鷲掴む。
「ああもう、ほだすつもりがほだされました」
「ああ?」
「行ってやるっつってんですよ」
間柴は片眉を少しだけ上げた。眉間に皺が寄っていた。
「・・・・・・おう」
そう答えて少し考え、左右を軽く見渡してから、
「待ってろ、切符買ってくる」
動こうとした間柴の腕を、板垣が慌ててまた捕まえた。
「あ、ちょっと。ひとつ条件が」
「あんだって?」
凄む間柴はやはり本当に、チンピラというより悪鬼の風情だ。
「チョコパ奢ってくださいよ」
「・・・・・・あー?」
間柴は条件と聞いた瞬間に、板垣の性格からして、精神的な負担か財政的な負担かどちらかを確実に伴うものだろうと覚悟したのだが、この返答は予想外にして理解不能だった。
「チョコバナナとかそういうクレープでもいいですよ、ガトーショコラでも」
間柴は板垣の頭を掴んだ。
めりめりと音を立てて腕から引き剥がす。
「節制しろよてめえ。まあいい、約束してやる」
そうして頭を掴んだ形のまま、がしゃがしゃと2、3度頭を撫でた、のだろう。
痛かったが、板垣はワアイと喜んだ。
「待ってろ」
「はーい」
券売機に並ぶ列へ向かう間柴の背を見送り、板垣はゆったりと腕を組んで微笑した。
ええと、先輩、ほんとすいません。
「ははは」
乾いた笑いも洩れようというものだ。
死神からのチョコレート。
「なんか、今年は風邪ひかなさそうだなあ」
呟いて板垣は、人波から頭半分飛び出している長身を目で追い、そして2月の海辺の寒風を想像して、軽く鼻を啜り上げた。
終
あとがき
板間バレンタイン!
間柴は久美たんとイポの待ち合わせ場所をこっそり聞いていて
板垣連れてそこに先回り、二人を見つけ次第尾行開始のおつもりです。
去年のバレンタインはそういえば宮→一????な一久美を書きましたが
その話では一歩、久美さんにチョコもらえてたし、
今年はTDLて!すごい進展!どんだけがんばったんだ!
間柴の過去のこういう行事てどうだったんでしょう…。
彼女とかいたんですか?いや居るまい(即効)
多分久美さんからは毎年もらえてる。
なにそれ・・・超かわいいじゃないですか・・・・・・
自家発電得意です
(2007.02.14)
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