翼
肩と肩がぶつかった。よろめいたのは小柄な背広の男である。乾燥して黄色くなったグラウンドの土を蹴立て、あやうく転びそうになった体勢を立て直して、
「こら、お前!」
上げられた声はしかし、叱責と言うにはあまりにも弱々しく上擦っていた。
「なんだよお」
通り過ぎざま、忌々しげに振り返ったのは学生服の青年だ。だらしなく伸びたシャツが上着の裾から覗いていて、更にその下からはちゃりちゃり小銭くさい音をさせて中太のチェーンベルトが垂れている。数人連れで、一行して足を止めたその学生らは、呼び止めた男の顔をみとめ、一様に顔を顰めた。
「河辺じゃん」
「そ、そんな横に広がって歩く、もんじゃない」
やはり叱るというより縋るという感じで、河辺は学生へ向けて必死に言う。
「危ないだろう、前見て歩きなさい」
「うるせえな」
「わあったよ」
やる気なく舌打ち混じりに頷いて、前方へ視線を戻した学生らはそこで不意に、ぎくりと体を強張らせた。
おいー、と一人が一人の袖を引いて耳打ちする。
「沢村じゃねえ?」
校門から一直線に、今こちらへ向かいつつある人影があった。
グラウンドの土埃が足元を汚すのに目もくれず、長身の尖った肩をライダージャケットに包んだその影は、高校の校庭という場所には不似合いで異質で目立った。そこだけ影が濃く見える。
「竜平」
河辺は呟いた。
確かに今日は約束をしていた。しかし、卒業以来沢村が校門の中へ入るのは、おそらくこれが初めてだ。
ざくざくと砂を踏む音が近付いた。
沢村は人を刺す。あらゆる刃と拳で刺す。狙う。
「ちょ」
「何だよ」
数歩先という近距離まで沢村が接近してきた所で、学生らから声が上がった。
河辺は沢村へ飛びついた。
「竜平!」
その胸へ縋りつくようにすると、沢村は学生らから離さなかった視線を、漸く河辺へと下ろし移した。
「先生」
「どうした、校門で待っていてくれれば良かったのに」
「先生、さっき」
と、及び腰になり顔を引き攣らせている学生の一団を見遣り、
「こいつらに、突き飛ばされて」
「違うよ、そりゃ誤解だ竜平!」
河辺を引き摺るようにして、学生らへ歩を進めようとする沢村の腰に手を回し、河辺は必死に言う。
「ちょっと肩がぶつかっただけだよ、本当だよ。ほらお前ら、早く帰りなさい」
冷や汗を額に浮かせつつ言う河辺に、学生らは素直に頷いた。
「あ、ああ」
「おい、ほら」
「ああ」
「待てよ」
沢村が、腰に河辺を縋らせたまま一歩踏み出した。
河辺は沢村のジャケットを掴んだ手に力を込める。待てと言われて思わず歩を止めた生徒らへ、
「いいから帰れ、行けっ!」
悲鳴に近い声を上げて叱責した。
沢村の接近よりも河辺の必死さに慄いて、学生らは思わず慌て、踵を返して半駆けになる。
「おい、こら」
尚もその背から視線を外さず、追おうとする沢村へ縋り、河辺はいいから、いいからと繰り返した。
「竜平竜平、本当に何でもないんだよ」
なんだかもう半泣きである。
沢村はようやく前進しようとする動きを止め、再び河辺へ視線を落とした。
「本当に何でもないのか、先生」
「ああ、ぶつかっただけだし、叱っておいたよ」
沢村は微笑んだ。口端を上げたその隙間から犬歯が覗き、眇められた目元といい、薄ら寒いものを覚えさせる禍々しい表情だった。
「先生が怒っても、迫力ねえんだけど」
「う、うん・・・」
面目ない。河辺はちょっと項垂れる。
「まあいいや」
と沢村は目線を校門へ転じた。大型のバイクが取り残されているのが見える。
「行こう先生、肉奢ってくれんだろ」
「あ、ああ、あああ、行こう」
二人は並んで歩き始めた。一部始終を見守っていた、下校中の生徒の視線が痛かった。
河辺は知っていたし諦めていた。沢村は常に飢えている。飢えを満たすものは血と肉以外に無いらしい。屠る理由を与えてくれるのはボクシングだけだ。先ほどの微笑には無念が含まれていたと河辺は思う。沢村は自分を助けるためだけでなく、それを名目として人をその拳で刺せるという肉の餌に釣られ、内心昂奮してこの苦渋の思い出しか残らぬ学び舎へ再び足を踏み入れた。飢えを充たしきれぬ不満と緊張が、今もまだみなぎっている。
無表情の沢村を見上げ、河辺は眩そうな、痛ましそうな顔をする。
沢村の感情はとても未熟だと河辺は思っている。
快か不快の二分なのだ。赤子やそこらの子供と一緒だ。複雑ではない。だからこそ持て余す。
竜平、内心で呼びかけながら河辺は沢村の背へ片手を回した。掌で軽く叩く。沢村はちらと細めた目で河辺を見た。
竜平。
でも、あれ見ちゃうとなあ。
校門に取り残された沢村の愛車は、大きく黒く凶悪に輝いて、ぎらぎらとした彼のまるで分身のようだ。
ほったらかして、私のとこに来てくれたんだもんなあ。
どうしてかなあ。河辺は自問する。
どうしてなのかわからなくなる事があるなあ。わかる、無理もないと、いつもいつもは思うんだけど、やっぱり私にはお前を置いてどこかへ行くなんてできないよ。
おまえの母さんは、どうして行ってしまったんだろうな。
おまえが可愛い。おまえが不憫だ。
幸せになって欲しいけれど、おまえの幸せがわからない。
おまえが怖い。自分が不甲斐ないよ。
河辺はそっと、沢村の背から手を放した。
途端、沢村は孤独な気持ちになって眼を細めた。
守ろうとして逆を行ってしまう自覚はあった。母と同じく恩師もきっと、いずれは恐れて逃げてしまうだろう。戻っては来まい。沢村も自覚していたし諦めていた。飢えている。それを充たす事が最優先だ。
暴力はいい。着弾。表皮の感触。次いで自分の骨が人の肉を潰していく触感。
何もかも目障りなのだ、爆発してしまいそうなのだ、何に飢えているのかは自分でもわからないが、それは血と肉で癒される。
「ほら、先生」
「ああ、ありがとう」
フルフェイスのヘルメットを渡されて、厳ついそれにいかにも似つかわしくない中年教師は相好を崩す。ありがとう、竜平。
乗れよ、沢村は促す。ああ、と河辺は応じる。
「減量いいのか」
「階級を上げる話があるんだ」
「そうかそうか、そりゃあ奢り甲斐あるな」
「先生は」
搾り出すような声だった。河辺は気付かない。
「優しいなあ」
キーを挿す。捻る。
幾何学模様のような彫りを刻まれたタイヤが地面と摩擦して、轟くような音と黒々した排ガスを吐き出し、大型の二輪はまだ日の高い通学路を駆け抜けて行った。
後書
河辺先生は優しいから沢村に構うのか、
同じ境遇だから放っておけないのか、
危うくて見てられないのか、
全部なんだろなあと考えながらイポ二次創作はじめた最初頃から
時間だけかけてぼちぼちちょっとづつ書いてた話でした。
河辺先生と沢村の母の違いを書きたかったんだけれど、
途中でわからなくなりました(汗
沢村さんはほんと、救いたい庇いたい関わりたくないどうしていいやら。
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